お ぼ え が き

 書斎を少しかたづけていたら、松原秀治(ひでじ)、松原秀一(ひでいち)親子による共著『仏作文の考え方』(第三書房)が本棚のすみから出てきて、読みかえした。
 わたしはこの本を1990年12月1日に、つくばの天久保ショッピングセンターにあった(いまはなき)« NOAH » で購入したと裏見返しに書いてある。
 学生のころ読んだものの、細部はかなり忘れていた。
 いまみると、下記に引用するような、最近の参考書などにはあまり見られない、重要な指摘が書かれている。
 「ゆとり教育」とやらの影響で、語学教育でも学習内容を削減してきた結果、ある部分では参考書も退化してきているのではなかろうか。
 学習内容の削減は、おもてむきは学力低下への対応ということになっているが、事実は逆で、学習内容を削減するからこそ学力が低下するのだ。

「フランス語で「耳のきこえぬ」は sourd で、その名詞は surdité ですが、「目の見えぬ」は aveugle でその名詞は cécité になります。これはラテン語では surdus, surditas ; caecus, caecitas と対になっているのですが、フランス語の形容詞は「目を奪われた」ab oculis (oculus > oeil) という複合的な言い方から出たためです。フランス語ではかつては sourd から sourdesse という語もあり aveuglerie, aveuglement, aveugleté などの語もあったのですが、17世紀中頃までには整理されてしまい、[中略] aveuglement は「理性が乱れて無分別になること」の意味で残っています。」(142ページ)

「次の組み合わせでは、右の欄の形容詞からは抽象名詞は作れないか、または意味がずれることになります。
  obscur : obscurité = sombre : ......
  grave : gravité = sérieux : ...... (le sérieux)
  délicat : délicatesse = gracieux :.... (la grâce)
  aigu : acuité = pointu : ......
  certain : certitude = sûr : ...... / sureté [安全]
  clair : clarté = lisse : ......
  tranquille : tranquillité = calme : ...... (le calme)
  exact : exactitude = judicieux : ......
  modique : modicité = nombreux : ......
  sensible : sensibilité = notable : ...... / notabilité [名士]
  passif : passivité = actif : ...... / activité [活動]
  léger : légèreté = lourd : ...... / lourdeur [この単語は「重さ」の意味では感情的に「負担の重さ」lourdeur du fardeau「文体の難渋さ」lourdeur du style のように使われる;同書143ページ]
  imprudent : imprudence = oublieux : ......
  noir : noirceur = ténébreux : ......
  reconnaissant : reconnaissance = ...... : gratitude」(143ー144ページ、ただし、=でむすばれた左辺と右辺の単語がかならずしも類義というわけではなく、あくまでも対応関係の比較である)

 「次のようなものでは、ラテン語から名詞が出ているのに対して形容詞はギリシア語からつくられたので互いに形の上での関連が全くなくなっています。
  la tête   céphalique
  l'oeil     ophtalmique
  l'oreille   otique
  le coeur  cardiaque
  l'estomac  gastrique
  le foie   hépatique
  la rate   splénique
  l'intetin   entérique」(148ページ)

 2番めの引用から連想的に思い出したが、英語の correctness に直接対応するフランス語は存在しない。
 英語の politically correct と political correctness をフランス語に導入しようとするとき、前者を politiquement correct としたが、correcteness に直接対応するフランス語の派生名詞がない(correction ならあるが、これは「矯正」になる)ため、名詞的言及のときも politiquement correct で済ませることもある。
 しかしカナダのフランス語では、rectitude politique という用語があみだされた。correct も rectitude も、ともに語源にラテン語の rectus をふくんでいるので、rectitude politique というのは、なかなか悪くない解決法といえるのではないだろうか。

[後日追記] 上記引用にでていた sourd から思い起こしたことを少し追記しておきたい。
 sourd という形容詞は、「耳のきこえない」という、ひとをさす意味と、「音のひびかない」という、認知対象をさす意味の両方がある。
 aveugle も、「目のみえない」とならんで、「光を通さない」という意味もある。
 フランス語には、このように、認知主体と認知対象をひとしく扱うということが、さまざまな品詞にわたって多いような気がする。
 動詞 sentir も、ひとを主語にすると「感じる」であるが、Ça sent bon というと「よい香りがする」ということになる。
 動詞 gratter は「ひっ搔く」であるが、Ça me gratte というと「かゆい」。わたしは学生のころ、Ça me gratte 型の表現は、「ひっ掻く」を先取りしている(j'ai envie de gratter)のかと思っていたのだが、「ちくちくして痛い」程度の感覚も、ものを主語にして gratter を使う(Le col de mon pull me gratte「セーターの首すじがチクチクする」)ので、かゆいときはすでに軽く掻かれている(≒ça pique)ように感じているとみたほうがよいだろう。
 Ça sent bon, ça me gratte, ça pique ともに指示代名詞 ça をもちいているところが注目される。これについては、大阪大学の春木仁孝先生が2014年発刊の論文、「Çaを主語とする発話と認知モード」『フランス語学研究』48号で論じておられ、「Iモード」(Interactional mode of cognition)の概念で<ça + 動詞>の文を説明できるとしておられる。
 春木先生は、たとえば ça craint「やばい」、ça urge「非常事態だ」ça chauffe「たいへんなことになる(←熱くなる)」のような例を中心として、状況全般を ça でさし、「認知主体が当該の出来事、状況を自らがその中にいるかのようにインタラクションを通して捉えているときに ça を主語とする発話が用いられる」(同論文72ページ)としておられます。
 このことは、アフォーダンス理論とのかかわりが強いように思う。「かゆい」が「ひっ掻く」をアフォードし、「音のひびかない」が「耳のきこえない」をアフォードし、「やばい」が「おそれる(craindre)」をアフォードするというように、アフォーダンスを紐帯として意味のひろがりがとらえられるようだ。
 Claude Hagège のもとで学位論文を提出なさり、その後もCNRSなどで研究しておられる西村拓也さんが、最近 La personne, sujet appelant : Esquisse d'une anthropologie pragmatique と題した書物を L'Harmattan から出版なさいました。
 西村さんが長年遂行してこられた、人称や呼称(人称代名詞、自称詞、対称詞、他称詞、親族呼称など)に関する一般言語学的・人類学的な研究の集大成ともいうべき書物です。
 以下に出版社による紹介をコピー・ペーストしておきます。

La personne

LA PERSONNE, SUJET APPELANT
Esquisse d'une anthropologie pragmatique
Takuya NISHIMURA
Préface de Claude Hagège
Langue et parole
ANTHROPOLOGIE, ETHNOLOGIE, CIVILISATION LINGUISTIQUE

"L'ouvrage de Takuya Nishimura est une contribution précieuse à l'étude d'une thématique dans laquelle la linguistique intervient avec le concours d'éclairages qui proviennent d'autres sciences humaines. Ce livre montre, à l'aide d'exemples nombreux et à travers une argumentation convaincante, la complexité de la relation entre nom et pronom dans l'auto-désignation et dans l'adresse à l'autre, phénomènes fondamentaux de la relation dialogale qui est à la base de toute communication" Claude Hagège, professeur au Collège de France

ISBN : 978-2-343-03600-7 • 1 décembre 2014 • 288 pages

Prix : 30 €
 域外類似地名と近似表現

 このページ:
 http://dd-extreme.at.webry.info/200603/article_11.html
 にみられるように、「北名古屋市」という地名は、「名古屋市のなかの北のほう」ではないから、誤ったネーミングであるとする説がある。
 とはいえ、大阪市の(市域外の)東には「東大阪市」と、それ以外にも「大東市」がある。また、東京都の23区外には、「西東京市」がある(西・東がかさなり、おかしな名まえだが、このことはいまはおいておく)。
 「北名古屋市」をみとめないたちばからは、それが「東大阪市」や「西東京市」以上におかしい理由として、「東大阪市」の場合は、大阪は大阪でも、大阪市ではなく大阪府の東のほうともいえるし、「西東京市」も、東京23区ではなく、都下もふくめた東京都全体で西のほうだから、ということになろう(じつは、西端の奥多摩町までふくめた東京都全体では、西東京市も東半分にはいるので、これでもなお問題はのこる)。

 しかし、とくにいわゆる平成の大合併のとき、本来の地名からみて明確に域外であるにもかかわらず、東西南北を冠した自治体の名まえがふえたことはまちがいない。
 広島市の(市域外の)東には「東広島市」がある。(ただし、合併時期は古い)
 相馬市の(市域外の)南には「南相馬市」がある。
 魚沼市の(市域外の)南には「南魚沼市」がある。

 ところで、域外の類似地名は本当に言語規範に反するのであろうか。
 そもそも「東京」からして、「東の『京(≒京都市)』」であって、京都からはまるで離れているのであるから、もとの地名に東西南北を冠した名まえを域外の地域につけてはいけないのなら、「東京」さえ認めてはいけないことになる。
 ここで「東京」とならんで注目したいのは「北広島市」である。北広島市は北海道にあるが、広島出身のひとたちが開拓したところであることから、北の広島と称したのである。

 京都からみた東京と、広島市からみた北広島市は、域外は域外でも、隣接さえしていないから、北名古屋市や東大阪市、東広島市などと同日の談ではないといわれるかもしれない。
 後論をさきどりしていえば、隣接しているか、していないかは大きな問題ではないようにも思うが、とりあえず隣接的なケースに限定していうと、これは「近似表現」(英語 loose talk、フランス語 approximatif)の一種ではないかと思う。
 ジュネーヴ大学の言語学者 Jacques Moeschler が書いていることだが、パリの20区(じつにせまく、東京でいえば山手線の内側にすっぽり入ってしまう)という厳密な行政区画内に住んでいなくても、たとえばとなりまちのヌイイー Neuilly に住んでいても、外国人と話すときなど、おおまなか住所をいうときなら、「わたしはパリに住んでいます J'habite à Paris」ということだろう。
 実際、パリ市郊外のヴィルタヌーズ市 Villetaneuse にあるパリ第13大学は、北パリ大学(Université Paris-Nord)という別名をつけている。

PA260019

 Moeschler によると、こうした用法が「近似表現」であることのゆえんは、ヌイイー市民やヴィルタヌーズ市民が「パリに住んでいる」というとき、いいたいことは、「パリ人の生活を送っている Je mème la vie parisienne」ということである。たとえば、集合住宅に住んでいるとか、朝晩メトロにのって通勤しているとか。
 そうした、惹起しうる意味効果の幅がおなじであることが、近似表現の基盤になっている、と Moeschler は言っている。パリがよく知られた都市であるからこそ、ヌイイーやヴィルタヌーズではわかないイメージがわくようになる、ということでもある。
 そのようなことから、よく知られた都市に隣接する都市をも、方位などの接辞をつけて拡張的にあらわすことは、実はけっこう普遍的な現象ではないかと思う。

 じつは、こうした近似表現説を、域外類似地名にも適用することができるかもしれないとわたしは思っている。
 「東京」もかつての「京(京都)」とおなじく、首都としての機能があり、都会的で洗練されたまちであるとか、「北広島」も入植した広島県人たちにとっては「広島」と同様の郷愁の結節点になりうる、といった意味合いである。

 もちろん、その種の命名は、域外にもかかわらずもとの地名を僭称しているという点で、このましくないという考えもありうる。
 ある種の「あやかり地名」ともいうべきもので、その最たるものとして、群馬県に(長野県でさえないのに!)北軽井沢という地名がある。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%BB%BD%E4%BA%95%E6%B2%A2
 もとの地名のイメージがよいときは、それにあやかって、関連する地名がつけられる範囲が周囲へと肥大してゆくケースがままある。
 「つくば市」の西に「つくばみらい市」(!)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%B0%E3%81%BF%E3%82%89%E3%81%84%E5%B8%82
 「玉川学園」の東に「東玉川学園」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%8E%89%E5%B7%9D%E5%AD%A6%E5%9C%92

 それなら、心理的連続性さえあればなんでもありなのか、といえば、ひとつだけどうしても制約があるとせざるをえないところがある。
 それは、つとに永井荷風が1943年7月5日に『断腸亭日乗』に書いていたことである。
 「東京市を東京都と改称する由。何のためなるや。その意を得がたし。京都の東とか西とかいふやうに聞えて滑稽なり」
 東京を「東の京」とよぶことにはすでに慣れていて抵抗はなくても、「東京都」というと、すくなくとも当初は、「東+京都」という分節化がどうしても出てきてしまう。これもまた、ついには慣れたわけであるが、やはり当初は抵抗があった。
 要するに、その時点でよりよく知られている、既成の複合的な地名に似たものはつけにくい、ということである。
 そのようなわけで、いまだに「京都」のなかに「東京(都)」はない。
 京都市内で、長岡京市との境に近い南西の端のほう、桂離宮のあたりを「西京区(にしきょうく)」という。
 しかし、京都の中央をへだてて反対側、南東の端のほうにある区は「東京区」とはいわず、「東山区」という。
 これはやはり、「東京」との重なりを避けるための非対称な命名だと思う。
 三方を山にかこまれた京都は、三方の山々を「北山」「東山」「西山」とよぶので、「西京区」を「西山区」にしてもおかしくはなかった。
 しかし一方で、ほかに「中京区(なかぎょうく)」「上京区(かみぎょうく)」「下京区(しもぎょうく)」「左京区」「右京区」があるので、それとの統一性をはかるため「西京区」とした。それに対して、「東京区」だけは作らず「東山区」にしておいたというのが実際のところだと思う。

#京都市は「東京(都)」というネーミングに踏みこまなかったが、私企業であるホンダは、あえて上記の制約をやぶり、「Honda Cars 東京都(ひがしきょうと!)」というディーラーをおいている!
 http://dealer.honda.co.jp/hondacars-higashikyoto/
銅版画家、小柳優衣さんの展覧会があいついでひらかれますので、以下に情報を転載しておきます。

■アートの贈り物-眠れない夜に-■
12/17(水)~23(火祝)
銀座三越 8Fギャラリー



■銀座かわうそ画廊 盛本美術プレオープン■
・プレ 12月20日(土)~26日(金)、2015年1月3日~6日
・オープン展Ⅰ 1月9日~1月18日
・オープン展Ⅱ 1月23日~2月1日
会場:東京都中央区銀座1丁目15-7 マック銀座ビル801



  <201411| 201412 |201501>